本稿は、ひとり人事が「きつい」と感じる状況から抜け出すための業務整理の実践ガイドである。筆者は20社以上の中小・ベンチャー企業で人事制度設計や組織開発を支援してきたが、ひとり人事が疲弊している企業には、ほぼ例外なく「捨てるべき業務を捨てられていない」という共通点がある。
読了後には、業務の優先順位が明確になり、今日から「捨てる」「任せる」「今やる」の判断が下せる状態になる。なお、ひとり人事が持つべき思考の軸(なぜ会社を先に見るべきか)はBS思考の罠|経営者の右腕としてPL思考で動く方法で詳述している。
本稿は、従業員30〜100名規模でひとり人事を担う方を主な対象に、業務整理の実践手法を扱う。思考の軸(BS/PL思考・右腕原則)は別稿、制度設計を60点で走らせる実践手順は別稿で詳述している。
01ひとり人事が「きつい」と感じる3つの構造的原因
業務整理の話に入る前に、ひとり人事のきつさが個人の能力不足ではなく構造的問題であることを確認しておく。原因を誤認したまま対処療法を重ねても、状況は変わらない。
1-1. 業務範囲が無限定化する
人事の仕事には明確な境界線がない。「人に関わること」はすべて人事に集まる構造で、労務・採用・制度・評価だけでなく、オフィスのレイアウト、社内イベント、経営会議の議事録まで降ってくる。「誰がやるか決まっていない業務」は、ほぼ自動的に人事に流れ込む——これが第一の負荷である。
1-2. 相談相手がいない(評価者不在問題)
ひとり人事は、業務上の専門的な相談を社内で行えない。経理なら税理士、法務なら弁護士に聞けるが、人事の判断を日常的に壁打ちできる相手は社内にほぼ存在しない。さらに厄介なのは、ひとり人事自身の評価者がいないという問題である。人事の成果は表層の数字で測りづらく、頑張っても報われない感覚が積み重なる。
1-3. 緊急業務が常態化し、重要業務に着手できない
退職者対応、労務トラブル、突発的な採用依頼。これらは緊急で対応を迫られるため、計画的な業務より常に優先される。本来取り組むべき制度設計や組織開発は「重要だが緊急ではない」領域だが、緊急業務に時間を奪われ続けた結果、1年経っても手が付かないまま——というケースが頻発する。
この3原因はいずれも業務設計で解消できる。なぜこの構造が生まれるのか、そしてひとり人事が持つべき思考の軸についてはひとり人事が陥るBS思考の罠|経営者の右腕としてPL思考で動く方法で詳述している。本稿ではまず、具体的な業務整理の手順に進む。
02ひとり人事が陥る「業務の沼」|よくある5つのパターン
構造的原因が複合すると、ひとり人事は特定の悪循環に陥る。20社の支援で頻繁に見てきた5パターンを示す。
2-1. 全領域に手を出して、どれも中途半端になる
一人ですべての領域に責任を持とうとすると、個々の質が必然的に下がる。採用も労務も制度も「とりあえず形になっている」状態になり、どの領域でも成果が出ない。結果、経営層から「何をやっているのか分からない」という印象を持たれる。
2-2. 社長の「依頼」と「懸念」を区別できない
社長の発言には、具体的な依頼と単なる懸念表明が混在する。これを区別せずすべて最優先で処理すると、計画的な業務が永遠に進まない。突発依頼の多くは「気になっているから調べてほしい」程度の懸念表明であり、本当にやってほしいわけではないことが多い。
2-3. 採用面談の合間に給与計算
本来は異なる集中力を要する業務を、隙間時間で並行処理している状態。採用面談は候補者への集中力、給与計算は正確性への集中力が必要。この2つを同日に詰め込むと、どちらのクオリティも落ちる。特に給与計算のミスは信頼失墜に直結する。
2-4. 制度設計に着手できないまま1年経過
入社時に「評価制度を作ってほしい」と言われていたのに、日々の業務に追われて手が付かない。気づけば1年経ち、経営層から「まだできないのか」と言われる。多くのひとり人事が経験するパターンで、業務設計を変えない限り絶対に解消されない構造的問題である。
2-5. 退職者対応が最優先になる悪循環
退職者が出ると、引き継ぎ・欠員補充・残メンバーのケアで業務が一気に増える。これが発生すると他業務がすべて止まり、結果として「次の退職を防ぐ施策」に取り組めない——という悪循環に陥る。
03業務トリアージの考え方|「捨てる」「任せる」「今やる」の3分類
ここから具体的な対処法に入る。重要なのは、業務を減らそうとするのではなく、業務を分類し直すという発想転換である。
3-1. 重要度×緊急度マトリクスでは足りない理由
業務管理でよく使われる「重要度×緊急度」の4象限マトリクスは、ひとり人事の現場では機能しない。なぜなら、ひとり人事の業務はほぼすべてが「重要かつ緊急」に分類されてしまうからである。結果、4象限で並べても優先順位が出ず、判断の役に立たない。
3-2. 「経営インパクト×専門性×代替可能性」の3軸判断
ひとり人事の業務分類に有効なのは、以下の3軸である。
| 軸 | 問い |
|---|---|
| 経営インパクト | その業務が止まると、事業にどの程度影響するか |
| 専門性 | 人事の専門知識がなければできない業務か |
| 代替可能性 | 外部・システム・他部門に任せられるか |
この3軸で評価すると、「重要だけど代替可能」な業務と「代替不可能な本当の人事業務」が明確に分離できる。
3-3. 3分類の意思決定
| 分類 | 定義 | 対象業務の特徴 |
|---|---|---|
| 捨てる | やめても事業に影響しない業務 | 経営インパクトが小さく、専門性も低い |
| 任せる | 外部・SaaS・他部門に移管する業務 | インパクトはあるが専門性は人事中核ではない |
| 今やる | 人事が自ら取り組むべき業務 | インパクトが大きく、代替不可能 |
「捨てる」業務は意外と多く存在する。「なんとなく人事がやってきた」タイプの業務は、やめても誰も困らないことがしばしばある。
04ひとり人事が最初に捨てるべき7業務
PL思考と業務トリアージの原則に基づき、100人未満企業のひとり人事が最初に「捨てる」または「任せる」べき7業務を具体的に示す。
4-1. 給与計算の実務
- 判断:任せる
- 理由:専門性は高いが、人事の中核業務ではなく、社労士・アウトソーシングに完全移管可能
- 代替手段:社労士事務所、給与計算BPO、クラウド給与システム
- コスト目安:月3〜8万円(50名規模)
- 効果:月20〜40時間の捻出
給与計算はミスが許されない業務であり、専門知識を要する。しかし社内の人事が直接やる必然性はない。むしろ外部の専門家に任せた方が精度が上がる。最優先で手放すべき業務である。
4-2. 勤怠管理の日次チェック
- 判断:任せる(システム化)
- 理由:手作業でやる時代ではなく、SaaSで自動化可能
- 代替手段:KING OF TIME、ジョブカン、freee人事労務など
- コスト目安:月1〜3万円(50名規模)
- 効果:月10〜20時間の捻出
勤怠の打刻チェック、残業申請の承認、有給管理をExcelや紙でやっているなら即SaaS化すべきである。初期費用を含めても半年で元が取れる。
4-3. 入退社手続きの一部工程
- 判断:任せる
- 理由:定型業務であり、社労士・BPOに委託可能
- 代替手段:社労士事務所への委託、入社手続きSaaS
- コスト目安:月2〜5万円
- 効果:月10〜15時間の捻出
社会保険の手続き、雇用契約書の作成、入社書類の回収といった定型作業は社労士に任せられる。残すべきは「候補者との関係構築」「入社後のオンボーディング設計」といった代替不可能な部分である。
4-4. 社内イベントの企画運営
- 判断:捨てる、または総務・広報へ移管
- 理由:経営インパクトは中程度だが、人事の専門性は不要
- 代替手段:総務部門、有志の社内チーム、外部イベント企画会社
- 効果:月5〜15時間の捻出
忘年会、社員旅行、周年イベントなどが人事に降ってくる会社は多いが、これは人事の本業ではない。総務や有志チームに移管すべきである。
4-5. 採用媒体の原稿作成・応募者管理
- 判断:任せる
- 理由:採用戦略は人事、原稿作成やスカウト送信は代行可能
- 代替手段:採用代行(RPO)、エージェント活用、採用SaaS
- コスト目安:月5〜20万円
- 効果:月15〜30時間の捻出
「採用」と一口に言っても、戦略設計と実務は分離できる。人事が集中すべきは「誰を採るか」の判断と最終面談である。媒体運用やスカウト送信は代行で十分に機能する。
4-6. 定期的な全社アンケート集計
- 判断:任せる(ツール化)
- 理由:集計作業はツールで自動化できる
- 代替手段:エンゲージメントサーベイSaaS(wevox、モチベーションクラウドなど)
- コスト目安:月3〜10万円
- 効果:月5〜10時間の捻出
自作のGoogleフォームで集計から手作業でやっている場合、即ツール化すべきである。サーベイの価値は設計と解釈にあり、集計作業は一切価値を生まない。
4-7. 経営層への月次報告資料の手作成
- 判断:捨てる、またはテンプレ化
- 理由:毎月ゼロから作る必要はない
- 代替手段:テンプレート固定化、ダッシュボード化
- 効果:月5〜10時間の捻出
毎回ゼロベースで作っている場合、テンプレートを固定し、数字の部分だけ差し替える運用に切り替えるべきである。可能であればBIツールでダッシュボード化し、経営層が自分で見る形にするのが理想だ。
上記をすべて実行すると、月70〜140時間が捻出される。これはひとり人事の稼働時間の約半分に相当する。捻出した時間を、後述する「本当の人事業務」に再投資することで、初めて戦略的な人事が機能し始める。
05捨てられない時の対処法|外部リソース活用の3つの選択肢
「捨てるべきなのは分かったが、社内で承認が取れない」「予算がない」という声もよく聞く。現実的な選択肢を3段階で示す。
5-1. 社労士・給与計算アウトソーシング
最も導入ハードルが低く、効果も明確な選択肢。給与計算・社会保険手続き・労務相談をパッケージで任せられる。月5〜15万円程度が相場で、給与計算の専門人材を雇用するより圧倒的に安価だ。
5-2. 人事顧問・フラクショナルCHRO
社内に相談相手がいない問題を解決する選択肢。月1〜数回、経験豊富な人事プロフェッショナルに壁打ちや戦略相談ができる契約形態で、制度設計や組織開発といった代替不可能領域を、プロの知見を借りながら進められる。月10〜30万円程度が相場である。
5-3. 業務委託・スポット相談
「制度設計を3ヶ月で作りたい」「組織開発プロジェクトを半年で回したい」といった、期間限定の重要プロジェクトを外部プロに委託する方法。社員採用より柔軟で、専門性の高い人材を短期間で活用できる。
06捨てた後に着手すべき「本当の人事業務」
業務を捨てて時間を捻出したら、本来取り組むべき業務に再投資する。これらは外部に丸投げできない、ひとり人事が専門職として担うべき領域である。
6-1. 制度設計(評価・等級・報酬)
評価制度、等級制度、報酬制度の設計は、人事の中核業務である。これらが整っていないと、採用も育成もマネジメントも軸がブレる。外部のコンサルタントを活用する場合でも、最終的に自社に合わせて運用できる形に落とし込むのは社内の人事にしかできない。
6-2. 組織開発・カルチャー醸成
組織の状態を診断し、介入する業務。エンゲージメントサーベイの結果分析、1on1制度の設計、マネージャー育成、カルチャーガイドラインの整備など。数字には表れにくいが、中長期の組織力を左右する領域だ。
6-3. 経営と連動した人事戦略立案
経営戦略に連動した人員計画、組織設計、人材育成方針の策定。ここまで踏み込めて、初めて「経営人事」として機能する。経営と連動した人事戦略を立案するための思考法は、ひとり人事が陥るBS思考の罠|経営者の右腕としてPL思考で動く方法で詳述している。
07よくある質問(FAQ)
Q1:社長が「全部一人で」と言う場合は?
多くの社長は「外部活用=コスト増」と考えがちだが、「ひとり人事の人件費+機会損失」と「外部委託費」を比較する資料を作って提示するのが有効である。例えば給与計算を外注すれば月30時間捻出でき、その時間を採用に使えば月1人の採用加速につながる——といった費用対効果の試算を見せると、承認が取れやすくなる。
Q2:外注予算がない会社の対処法は?
予算が一切ない場合、まず無料〜低価格のSaaSから着手する。勤怠管理なら月1万円以下のツールがあり、アンケート集計もGoogle FormsとLooker Studioで代替可能だ。その上で、捻出した時間で「外部委託の費用対効果資料」を作り、予算獲得に動くのが現実的な順序である。
Q3:捨てる業務を社内に説明する時のコツは?
「捨てる」ではなく「再配置する」という表現に変える。「社内イベントは総務に移管します」「給与計算は社労士に委託します」と、行き先を明示して説明すると反発が減る。また、捨てた後に何をやるのか(制度設計・組織開発)を合わせて示すことで、「手を抜くのではなく、より重要な業務に集中する」というメッセージが伝わる。
Q4:2人目の人事を採用するタイミングは?
目安は従業員80〜100名、または業務の外注化を進めても捻出時間が追いつかなくなった時点である。ただし採用の前に、まず外部リソース(社労士・顧問・業務委託)で対応できないかを検討すべきだ。正社員採用は固定費が増えるため、外部活用で変動費化する方が経営的には柔軟性が高くなる。
08まとめ|ひとり人事が生き残る3原則
- 原則1:「代替可能性」で業務を分類する——すべてを80点で回す発想を捨て、代替可能な業務は徹底的に外に出す。給与計算・勤怠・定型事務は最優先で手放す対象。重要度×緊急度では判断できない。経営インパクト・専門性・代替可能性の3軸で分類し直すべきだ。
- 原則2:100点思考を捨て、60-70点で走り始める——人事ほど「巧遅拙速」が当てはまる部署はない。制度設計に半年かけて運用開始できないより、60点で走りながら磨く方が結果的に精度が上がる。この考え方の実践法は人事こそ巧遅拙速|60点で走り始める実践法で詳述している。
- 原則3:捻出した時間を本当の人事業務に再投資する——外注で時間を作っただけでは何も変わらない。制度設計・組織開発・経営と連動した人事戦略という代替不可能な本業務に投資して初めて、戦略的な人事として機能し始める。
より深く「経営者の右腕として動く思考法」を知りたい方はひとり人事が陥るBS思考の罠|経営者の右腕としてPL思考で動く方法を、「60点で走る実践法」を知りたい方は人事こそ巧遅拙速をご覧いただきたい。
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